石川啄木観

私の啄木についての印象は、何度も変わります。
<たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽き(かろき)に泣きて 三歩あゆまず>を教科書で知ったとき、「気持ちを、素直に、大げさに?表現するのがうまい」と思いました。
<東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる>を見て、「泣き虫か」と思いました。その後、<地図の上 朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く>を知って、「社会への鋭い感覚」に驚きました。
でも、「啄木は所謂「たかり魔」で、困窮した生活故に頻繁に友人知人からお金をせびっていた。」など読むと、だらしない人間だと思いました。
今回、釧路へ来て、啄木の歌碑をめぐり、資料を展示している港文館に寄ってみました。
着いた日の印象 <さいはての駅に下り立ち  雪あかり  さびしき町にあゆみ入りにき>
啄木は、釧路の新聞社に迎えられました。たった76日しか居なかったのに、馴染みになった「妹のような芸者」について<小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり><よりそひて 深夜の雪の中に立つ  女の右手のあたゝかさかな>と詠んでいます。他に、梅川操という気性が強い女性が、夜中に来て、小奴と鉢合わせします。<一輪の赤き薔薇の花を見て 火の息すなる 唇をこそ思へ>との歌を残しています。私は、啄木は、「女性を泣かせる男だったのか?」と想像しました。
しかし、買ってきた『増補・石川啄木 その釧路時代』(釧路新書)をめくってみると、釧路には、初めて新聞の編集を半ば任されるような形で迎えられて張り切って記事を書き、23歳の文才ある若者は毎晩のように、夜中まで遊んだ、話しこんだ、付き合ったということだったのかもしれない、、、。と思い始めています。その後東京に出て、大変な苦労もしますが、一晩に300も歌が浮かんだ夜もあるそうです。
享年26歳。短すぎる一生だったのだから、借金も、傲慢も、許されていい?皆さんは、どう感じるのかなあ?ともあれ、私の乏しい啄木観は、すこしだけ多面的になった気がします。
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# by chiharu_eguchi | 2015-08-28 16:29 | 手をつなごう

中学生のいじめ・自殺について 考えました


1)中学生の、いじめ・自殺が起こるたびに、皆様暗澹たる気持ちになっておられるのではないでしょうか。私が、「次々と同級生をいじめたくなる気持ちが湧いてくるような、社会と教育の構造こそ問題があるのに、そこまで検討しようという世論にならないなあ」と言うと、近くにいたTさんに、「そんな、大きなこと言ってる場合ではないでしょ。自殺した子どもがこれだけ発信しているのがから、守る機会は何度もあったはず。例えば、学校に行くのがいやだと言っていたのだから、休ませるとか隔離するとか」と批判されました。どうお感じですか。Tさんの意見、私は、その通りと思うところもありますが、、、
(以下、つぶやきを書きます。ご感想、ご意見をいただければ幸いです)

こんなことも思いました。いじめは、例えば、里吉さんの子ども時代だってあった。
身売りとかもあり、学校に弁当を持っていけない子は、昼時どうしていたでしょう。
だから、昔がよかったということではありません。
ただ、現在起こっている、ターゲットを継続的にいたぶって生きる力を奪うようなことをする子どもが、次々と雲が湧くように出てくるということはどれぐらいあったでしょうか。
里吉さんの子ども時代は、勉強ができる子はそれはそれで評価されたけれど、、遊びがうまい、喧嘩が強い、牛を扱えるなどが評価され、ガキ大将のような存在が子ども世界では大きな顔をしていたのではないでしょうか。

ところが今は、学校でも、家庭でも、同じ物差し(テストによる品定め)に取り囲まれ、
絶えず比べられたら、知的な探検も、冒険も無縁のまま、学ぶ喜び生きる嬉しさを感じられない日々の中で不安が増大し、これがいじめの土壌となっていると言えないでしょうか

2)今回の岩手・矢巾町の13歳の少年の死を防ぐために、もっとこうすればよかったということがあったと思います。その教訓は、活かさなければなりません。だが、学校の教員一人一人は、私たち同様、パーフェクトではありません。だからこそ、教員同士の協働が必要ですから、教職員が最善な対応できるよう学ぶことは重要ですが、話をそこで終えて、学校の対応にだけ期待と責任をかぶせてよいのでしょうか。
 不安・怒りが湧いてくるような学校、ターゲットを生み出し、いじめる子どもといじめられる子どもを生み出す学校は、ほんとうに「教育の場」と言えるでしょうか。そう言うと、当該の学校の教員や地方教育委員会を責めているように受けとられるかもしれませんが、そんな教育の場、その背景にある過度に競争的で管理的な状況をあたりまえとする社会の源流に目を向けなければ、決して今回のような悲しくつらい事件はなくならないのではないと思います。

 人は追い詰められると何でもしてしまう恐れが大きくなりますが、近年の「新自由主義」「市場原理主義」の経済政策とは、金融と特定企業を動かせる勢力と政治が結びつき、当面の利益を自由に最大限に確保するためには、あらゆる力を利用する」という政策であり、国民を効率的かつ安く活用するため選別し、非正規の雇用を増やす。そのためには、絶えず競争させ、「愛国心」を持たせる。社会保障費はできるだけ削減するという動きと思います。こういう政策の下で、学校や親が、子どもや青年を競わせる路線に乗れば、源流も背景も分からない生徒は、不快と不安を弱いものを探してぶつける。教育の場が、友達ができる、学ぶ喜びの場であることを離れ、人同士が傷つけあう場になってしまう危機、そこに焦点があると思います。今日も、新自由主義を推進し、テストで品定めをする政治家が、「いじめてはいけない」「道徳を教科にせよ」と大きな声を出しています。

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# by chiharu_eguchi | 2015-08-18 16:47 | 手をつなごう

リボンプロジェクト 議員と語ろう! 伊藤美好さんから

このところ、私たち(りぼん・ぷろじぇくと)は、それぞれに、与党 議員事務所中心に電話をかけて、安保法制に関して個々の意見を伝えているので
すが、話をしてみると、与党議員や議員秘書のなかにも心が揺らぐ人が出始めて
いるようです。もっと多くの方々が、直接地元議員や委員会委員に意見を伝えてくださったら、 流れが変わるかもしれないと感じます。そこで、以下のような緊急アクションの呼びかけをすることにしました。

どうぞこの呼びかけを広めてくださいますようにお願いいたします。
また、視覚的に訴える呼びかけもつくりました。
http://www.ribbon-project.jp/action.html

控えめな内容なので、抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、与党議
員を動かすには、やわらかく、したたかに動くことが重要と感じています。
どうぞよろしくお願いいたします。

☆上記サイトは、お気持ちと時間をいっぱいかけて作られたサイトと思います。
国会の審議、法案、議員への要請先も見ることができ資料も。「日米ガイドライン」
もありました。
http://www.mod.go.jp/j/approach/anpo/shishin/pdf/shishin_20150427j.pdf
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# by chiharu_eguchi | 2015-08-18 16:33 | 手をつなごう

歴史を学び直す 維新心酔の教育

 8月が近づいて 自分の歴史観を振り返る 国民の中にある「日韓併合」と「大東亜戦争」肯定感情の系譜をたどると、吉田松陰と維新心酔の教育に行きつきます。

 明治維新のイメージは、「身分制度打破」、「文明開化」「富国強兵」「近代産業」とともにあります。ですから、古き江戸時代を葬り、明治時代に道を開いた「草莽の志士」は、なんとすごい人たちだろう!とあこがれるようになっていました。長州や薩摩の志士が、江戸での焼き討ちしたことや会津でしたことを知っても、いわば、光と影の影の部分だろうと軽く考えていました。影も本質的なもの?歴史イメージは、明治維新で政権をとった側の「教育」が、戦後も続いていて育てたものかもしれないと感じます。テレビでも、本屋でも、「維新」と「松陰」は英雄物語として扱われていますが、維新とは何だったのか学び直したいと感じています。

 
吉田松陰の言行から「今急に武備を修め、艦ほぼ具わり砲ほぼ足らば、即ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、すきに乗じてカムチャッカ、オコックを奪い、琉球を諭し、朝きん会同すること内諸侯とひとしからめし、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。」

この発想は、確かに明治政権によって追求されていったのではないでしょうか。
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# by chiharu_eguchi | 2015-08-18 16:27 | 手をつなごう

歴史を学び直す 池上彰さんの番組で 


①過去100年を振り返り「戦争につながる演説」を紹介していました。1943年の「学徒出陣」における学生代表の「答辞」は、「私たちは、生きて帰りません。屍を超えて後に続いて」と後輩に呼びかけ、多くの人々を感涙させました。(*少し調べますと、その答辞も、巨大な動員への演出でした。資料をご覧ください。)

②ナチスが政権をとるにあたっては、「経済」で、国民の支持を獲得しました。(公共事業(アウトバーンと国民車フォルクスワーゲン」で)私はアベノミクスを連想しました。
「ユダヤ人と共産主義をこの世から抹殺せよと、攻撃の対象をつくって国民を巧みな演説で熱狂させ、憲法を無視できる法律、「全権委任法」を通して、ドイツを侵略戦争と虐殺へのの道へ導きました。池上さんは、現在の政治の状況を見て、「歴史に学ぶ」番組をつくったと思います。
なお、昨年、副総理の麻生太郎氏が、「ナチスに学んだらどうか」と言ったこと思いだしました。

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# by chiharu_eguchi | 2015-08-18 16:21 | 手をつなごう

歴史を学び直す  

<資料 >
タイメン鉄道 《「泰」はタイ、「緬」はビルマのことと朝鮮人戦犯
太平洋戦争中、日本軍がインパール作戦の物資輸送のため、タイ・ビルマ間に建設した鉄道。タイ側はクワイ川に沿う。連合国捕虜や現地人が動員され、数万の死者を出し、「死の鉄路」ともよばれた。


1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するためにタイ側は南本線のノーンプラードゥック駅から、ビルマ側からはタンビュザヤより建設を開始した。

建設の作業員には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人(うち1万2619人が死亡)、募集で集まったタイ人数万(正確な数は不明)、ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人の労働者が使われた。建設現場の環境は劣悪で、特に工事の後半は雨季にもかかわらずさらなる迅速さが要求され、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上り、戦後に問題となった。犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出るが、総数の約半分と言われる。特に、巨大な一枚岩を掘り下げるなどしたヘルファイアー・パス(英語版)と呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿わせるように木橋を建設したアルヒル桟道橋など未開発の地帯では、工作機械不足と突貫工事による人海戦術のため死者が多かったという。こうした労働者の多大な犠牲のもと、当初5年は掛かると言われた建設が翌年10月には完成した。

http://www.geocities.jp/taratooi2545/page002.html

このようにして始まった泰緬鉄道の建設ですが、地理的な悪条件に加えて、1943年4月からは戦局の悪化や命令されていた工事完成予定からの遅れのために大本営から工期の短縮命令が下り、より労働は苛酷さを極めることとなります。この命令が出たあとの期間が、泰緬鉄道の建設現場では「スピードゥ」と呼ばれていた、特に苛酷な労働が強制された期間なのです。戦争捕虜やアジア各地から集められた労働者の人々に、以前にも増して過酷な労働が強いられることとなり、多大な犠牲者を生んでいきました。その当時の模様は、オーストラリア政府が管理するカンチャナブリ県内陸部のヘルファイアパスにある資料館で、現在でも詳しく知る事ができます。

 猛暑の中、人かい戦術でクワイ・ノイ川沿いのジャングルを切り開き、国境山岳地帯の岩山を削る作業が連日長時間続きます。そこに追い討ちをかけるように雨季の激しいスコールが連日襲い、食料や医薬品の不足、重労働、日本軍による虐待、さらにはコレラやマラリヤなどの伝染病にも見舞われ、多大な数の死者を現地で働くアジア人労働者や戦争捕虜の人々の間に出しながらも、鉄道線路の敷設作業は進んでいきました。

http://blog.livedoor.jp/kanedashoji70/archives/26057647.html

李氏は戦時中にタイの捕虜収容所の監視員として働かされ、戦後、連合国による裁判で死刑を宣告された。8カ月間死刑囚として収容されていたが減刑され、計11年服役した。サンフランシスコ講和条約により日本国籍も剥奪されたため、恩給などを受けることもできなかった。

「日本人」戦犯として裁かれ、処刑された朝鮮人
http://www.toyamav.net/~fc9/sPDF/75-8~9.pdf

朝鮮人戦犯の多くは捕虜の監視役だった。
戦犯として、訴追された朝鮮人148 人のうち3 人だけが軍人・兵士であり、ほかは捕虜収容
所の監視員という名の軍属だった。これらの軍属は兵以下の存在であり、上官の命令に絶対服従することを叩き込まれていた。.監視員たちは捕虜を強制労働に駆り立てる役割をさせられ、しばしば殴打などの暴力を振るっていた。

BC級戦犯裁判では、過酷な強制労働、暴行、虐待で多くの犠牲者が出た泰緬鉄道に関連したケースが多数裁かれている。大本営や南方総軍司令部の命令で、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤマでの415キロを結ぶ泰緬鉄道は、わずか1 年たらずの突貫工事で完成した。熱帯の山岳地帯のジャングルでの作業は困難をきわめ、加えて劣悪な宿舎や乏しい食糧・医薬品などのなかでの強制労働は過酷であり、連合軍捕虜61,800 人のうち約12,300 人、アジア人労働者約20 万人中74,000 人(イギリスの推定)が死亡した。これらのしわ寄せは、建設現場に捕虜を提供していた捕虜収容所にきた。捕虜の監視役をさせられていた朝鮮人軍属が、捕虜たちの憎しみの前面に立たされたのだ。
泰緬鉄道に動員された捕虜は、主にシンガポールでとらえられた英連邦軍の将兵たちであったので、イギリスとオーストラリアがそれぞれに裁判を行った。合わせて120 人が起訴され、111 人が有罪判決を受け、32 人が死刑になっている。この中に朝鮮人軍属の有罪33 人、死刑9人も含まれている。死刑になった朝鮮人軍属はいずれもタイ俘虜収容所に所属していた。この「事件」に対して真に責任ある上級者たち(大本営や南方軍司令部の誰も)はほとんど裁かれずに終わっている。
ジュネーブ条約と「戦陣訓」の違い総括的にみると朝鮮人の捕虜監視員約3,000人の中で129 人が戦犯になっている。こんなに高い戦犯比率を出した日本軍部隊は他にない。
なぜ彼らが戦犯になったか。日本が受諾したポツダム宣言の中に「われらの捕虜を虐待せるも
のを含むあらゆる日本の戦争犯罪は、これを厳しく裁く」とある。

この時に連合国の念頭にあったのが日本軍の捕虜虐待であった。ナチスに捕まった英米の捕虜の死亡率は4%弱だったのに対し、日本軍に捕まった連合軍捕虜の死亡率は27%であった。こうした犠牲が戦争犯罪として裁かれたのである。その中心の一つが泰緬鉄道の事例だったのである。
1929 年のジュネーブ条約は、捕虜の取り扱いをきめた条約である。「俘虜は其の人格及名誉を尊重せらるべき権利を有す」(第3 条)と定めているが、日本は批准しなかった。日本軍兵
士はジュネーブ条約について何も教えられなかった。彼らに叩き込まれたのは、「生きて虜囚
の辱を受けず」(捕虜になってはいけない)という「戦陣訓」の教えであった。日本軍兵士や軍属たちに捕虜の人格や身体・生命を大事にしなければならないという思いはなかった。
「日本人」として受刑し、援護・補償はなし朝鮮人戦犯はみな「日本人」として裁かれ、
処刑された。しかし、1951 年サンフランシスコ講和条約が発効して、朝鮮人は日本国籍を離脱したとみなされた。しかも、講和条約第11 条
には、戦争裁判について「日本国民の刑の執行を引き継ぐ」と明記されている。朝鮮人は日本国民ではなくなったのだから、拘留される理由はない。ところが、なぜか拘留は続けられた。
一方で、1952 年に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」ができると、「国籍条項」で朝鮮人は対象からはずされた。刑は「日本人」として「平等」に引き受けさせられたのに、日本政府は援護・補償の対象からははずしたのだ。
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# by chiharu_eguchi | 2015-08-18 16:15 | 手をつなごう

歴史を学びなおす  学徒出陣壮行会の答辞 

1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会は、日本放送協会もより、2時間にわたりラジオで中継された。特に、江橋 慎四郎の答辞を聞いて、感涙にむせび「我もまた往かん」とする若者も多かったと伝えられている。「生等(私たちは)もとより生還を期せず、《後に続く》在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。」という部分が特に注目される。
 
以下全文。
「明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競い、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。本日、この思い出多き地に於いて、近く入隊の栄を担い、戦線に赴くべき生等のため、かくも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。
思うに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃壤払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確固として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。

然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は日を追って、熾烈の度を加え、事態益々重大なるものあり。時なるや、学徒出陣の勅令公布せらる。予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外に優渥なる趣旨を奉体して、近く勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。また奮起せざらんや。

生等今や、見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。かくの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。

 生等謹んで宣戦の大召を奉戴し、益々、必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を堅待して決戦場裡に突進し、誓って皇国の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす」

かくも激烈なる答辞を聞いて、会場にいた者は勿論、ラジオでしか聞かなかった小生もその雰囲気に酔った。女子学生などは、涙ながらに見送った。感激のあまり、一部の女子学生が、学生たちがゲートを出て行くとき、出口になだれを打って駆け寄ったそうだ。だが、皆政府・軍当局の巧みな演出で感激し、興奮していたのだ。今にして思えば、感激損、泣き損かもしれぬ。
ところが、』江橋氏は92歳になって、このように記しています。
『(この)答辞の文章,私が書いたわけではありません.宣誓文を書けとは言われましたが,文才もないし,味もそっけもないものしか書けなかったので,国文科出身の学生主事(事務官)が添削して,素晴らしい文章に仕上げてくださった.もっとも,今覚えているのは「明治神宮外苑は」という冒頭の言葉ぐらいです. 』
 http://www.shimousa.net/techou/techou_seira.html

東条首相の演説、送辞、答辞「海ゆかば」の斉唱まで、国民を動員するための大きな演出があったことが分かりました。

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# by chiharu_eguchi | 2015-08-18 16:03 | 手をつなごう

沖縄に向き合いたい

                                     
沖縄の読谷村の歩みを学び始めた。読谷村は本島の
西海岸にある。村のサイトを見ると、人口は41,040人に増
え「日本一人口の多い村」となった、三線の始祖の地とし
て誇りを持ち、琉球古典音楽を愛し伝えているとしている。
 歴史に学ぶ  何が命を奪い 命を救うか
<林博史 関東学院大学経済学部一般教育論集 『自然・人間・社会』第13号から抜粋し編集させていただきました、>)

読谷に戦争の影が押し寄せたのは、1943年夏。陸軍は南西諸島に飛行場を持っていなかったので、南方作戦のために徳之島、伊江島、沖縄北飛行場( 読谷) の建設に着手した。村民は「飛行場用地に使用する」と土地を買収され、キビ、イモ、大豆など収穫もできないまま敷きならされ、工事にかり出された。1944年の10月、初めての空襲で、座喜味集落にも爆弾が落ちて、14名の犠牲者がでた。1945年2 月県知事から疎開命令が出され、村は国頭村に臨時役所を設けて疎開者の受入れに当たったが多くの村民は村に残っていた。3 月25日軍より北部へ退避するよう指示が出されたが、すでに米軍の艦砲射撃が始まっていた 。

チビチリガマの惨劇
4 月 1日米軍は読谷海岸に上陸してきた。直後の4 月2 日におこったのが波平集落の人々が避難していたチビチリガマでの「集団自決」だった。中国に兵士として従軍し、日本軍が中国の人々に対しておこなった残虐行為を見聞してきた元兵士と、同じく中国に行っていた元従軍看護婦が、「自決」を主導したという伝聞がある。犠牲者の年齢別の構成は、死者82人のうち15歳以下が46人、国民学校生以下の12歳以下としても40人を占めている。この子どもたちには自分の意思で「自決」を判断することはできないと見なければならない。
シムクガマでは助かった!

 一方、シムクガマには波平の人々約1000人が避難していた。米兵がやってきて「カマワン、デテキナサイ」と呼びかけた。警防団の少年らが竹槍を持って突撃しようとしたが、ハワイ帰りの老人が「竹槍を捨てろ」とやめさせ、もう一人のハワイ帰りの人が外に出て米兵と交渉し、住民を殺さないことを確認してから、ガマの人たちに投降するように呼びかけた。こうして約1000人の人たちは投降して助かった。40~50人だけは「自決」すると言って奥に入ったが4日後に投降した。 ハワイに移民で行っていた人は、アメリカ人というものを知っており、日本軍が宣伝するような残酷な「赤鬼」ではないことを知っていた。だから住民しかいないことを米兵に話せば、命を助けてくれると考えたのだ。当時、多くの沖縄の人々が日本軍の宣伝を信じこんでいたことは証言でも明らかである。米軍に捕らえられたら、女は辱められてから殺されるし、男は戦車で轢き殺される、という言説が飛び交っていた。さらに、住民であっても米軍に捕まることは恥辱であり、いざとなれば死ぬべきだという教育=皇民化教育が徹底的におこなわれていた。
 山内徳信読谷村長が「沖縄の歴史は、かの大交易時代に象徴されるように逞しく栄えた時代があった。ところが、近世、近代の沖縄の歴史は、まさに苦難と抑圧・差別の歴史であった。そのはての姿が悲惨な沖縄戦のいまわしい体験であった」と述べている通り、近代沖縄の行き着いた先が沖縄戦( チビチリガマの悲劇) であった。http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper06.htm

沖縄の戦後を本土国民は知っているか
1951 年、サンフランシスコ平和条約を結び、本土では「独立」を祝賀したが、沖縄は引き続き米軍の統治下に置かれた。日米安保条約を裏付ける、「日米地位協定」は、為政者にとっても、国民位とっても重要な取り決めとなったが、地位協定の内容と問題点を知る必要がある。米軍は、地位協定に依拠して駐留を続けている。
沖縄の人々は、「日本復帰」できれば、基地は本土並みになり、日本国憲法の下で平和と基本的人権と享受できると復帰運動に取り組んだ。1972年、沖縄は日本に復帰した。その結果は?本土の私たちは、戦後置き去りにされた沖縄と、復帰後のリアルな状況を知ろうとしてきたのだろうか。
 
映画『沖縄 うりずんの雨』 沖縄と米国から見た歩み
私は、沖縄戦の悲惨を聞いていたが、戦後の沖縄の歩みについてはぼんやりとした印象しか持っていなかった。本土での反基地の闘いの結果、本土の米軍基地は減少したが、多くが沖縄に移動した。沖縄の人々は、またもや犠牲にされたのだ。性犯罪、有毒廃棄物のすさまじさは映画を見て初めて知った。この映画は、私たちが沖縄に向き合うためのまたとない映画と思います。東京では 岩波ホールで上映中 <ジャン・ユンカーマン監督から > 想像もつかないほどの戦争体験をした沖縄の人々は、一貫して戦争を拒絶してきました。しかし米軍は沖縄を「戦利品」として扱い、膨大な基地を建設。それらを拠点として、朝鮮、ベトナム、中東で戦争を続けてきました。平和を求める沖縄の文化と、戦争を選ぶアメリカの文化――。対極にある二つの文化が、狭い島に共存せざるを得なくなったのです。米軍基地を撤廃するための戦いは今後も長く続くでしょう。沖縄の人々はけっしてあきらめないでしょう。しかし、沖縄を「戦利品」としての運命から解放する責任を負っているのは、沖縄の人々ではありません。アメリカの市民、そして日本の市民です。その責任をどう負っていくのか、問われているのは私たちなのです。

◎映画『戦場ぬ 止め』、辺野古新基地は、軍艦も利用する基地で、海と自然を台無しにし、再び島ぐるみ戦争に巻き込む危険をもたらすと、沖縄島民は深く強く肌で感じていいます。今かつてない「オール沖縄」で声を上げています。人々の肉声を、ここまで寄り添って撮った映像を知りません。オジイ、オバア、若者、子どもと心通わせ厳しさの中で生き抜くユーモアもとらえた三上智恵監督に大きな拍手を!7月18日から31日3回上映 ポレポレ東中野 順次全国で)

◎参考 日米地位協定の改定を求めて 日弁連からの提言
 日本には、132か所 《2014年9月現在》の米軍施設が置か
れ、約5万名の米兵・軍属、その家族4万名が駐留しています。
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# by chiharu_eguchi | 2015-07-29 10:38 | 手をつなごう

小林よしのり 新戦争論ノート

小林氏といえば、「大東亜戦争肯定論」をぶちあげた『戦争論』(1998年)の大ヒットにより、“ネトウヨの生みの親”とも言われている人物。今、ネトウヨからは、「小林よしのりは左傾化した」と批判されているそうだ。「ようござんすね? このまま戦争で」 「過剰に右傾化した日本の舵を、いったん真ん中に切り戻す」(幻冬舎)の帯の文だ。

「アメリカ様々のポチ連中」へのメッセージ
イスラム国はアメリカのイラク侵攻が生み出した。絶対に許されない侵略戦争だった。日本はその大義なき戦争を支持したことに対する総括がまったくできていない。そんななかで集団的自衛権が行使されれば、日本はいっそう米軍と一体化し、必ずや戦争に巻き込まれる。
改憲の後「普通の国」になれば徴兵制だってありえる──。

そのうえで小林は、アメリカに追従しイラク侵攻を肯定した小泉純一郎、その安全保障のブレーンを務めた岡崎久彦、京大名誉教授・中西輝政らを「恐米ポチ」と名付ける。そして、そこに連なる安倍首相についても、日露戦争以降醸成されてきた中東からの評価を、あの“カイロ2億ドル支援演説”の「たった一言で壊した」と批判し、こう締めくくるのである。
「アメリカ様々のポチ連中のせいで、このままだと国民がまったく知らないうちに戦争に引きずり込まれてしまうよ」

*イラク戦争がいったいどんな戦争だったのか、そのリアルを迫力ある絵と文で描いている。

ネット右翼  ヘイトスピーチを続ける人へのメッセージ
〈何の努力もせず、人生経験も教養もなく、手っ取り早く安直に、考え方一つで成功する、別の人間になれると錯覚させる、それが自己啓発本だ。
 今の自分に自身のない者が、等身大の自分に下駄を履かせるのだ。〉
〈実は「嫌韓本」も売れる構図は同じである。卑小な自分でも自信を持つためには、自分以下の存在を差別すれば手っ取り早い。〉 〈「嫌韓本」は、等身大の自分に下駄を履かせる「自己啓発本」であり、「癒し本」なのだ。〉
 小林は、これは「ナショナリズムの悪用」で、最近「嫌韓本」にとってかわって盛況を見せている「日本自賛本」もセットとし、まるで「危険ドラッグ」ではないかと嘆く。そして、行動保守などのヘイト市民運動について、こう言い放つのだ。〈隣の国の悪口で自我を肥大させ尊大になっている日本人なんて美意識のカケラもない!〉 〈結局、愛国心を掲げて運動する者たちは、等身大の自分を見たくないのだ。〉

「左翼」への批判  (後述)

LITERA http://lite-ra.com/2015/03/post-946.htmlから


<追加情報> 
自民党内のリベラル系議員による勉強会が、漫画家の小林よしのり氏を講師に招いて会合を6月25日に開く予定だったが、「運営上の都合」により急きょ中止になった。これに対し、小林よしのり氏は自身のブログで「多様な意見は許されない」「全体主義の空気が蔓延している」と自民党を激しく批判した。
朝日新聞デジタルによると中止になったのは、党内ハト派と言われる「宏池会」(岸田派)の武井俊輔、無派閥の石崎徹両衆院議員らが立ち上げた「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」だ。25日、安倍政権に批判的な漫画家の小林よしのり氏を招いて5回目の会合を開く予定だったが、2日前に急きょ中止が発表された。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/06/25/kobayashi-yoshinori-vs-ldp_n_7668134.html

「脱原発」
「わしの保守という概念は、基本はパトリオティズムです。パトリって故郷。故郷をなくしてしまうなんてことは、絶対あってはならないと思いますから、本来、保守の側が、こんなことが起こったら原発に反対すべきだと思うわけです」。

<小林氏の論で 検証したいところ >
◎大東亜戦争は米国に強いられたものである。その証拠がハルノートだ。

◎戦争で死んでいった兵士は、国を思い、自己を犠牲にした、それが尊い。

◎靖国神社は英霊を顕彰する場である。
(江口)
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# by chiharu_eguchi | 2015-07-29 10:27 | 本や雑誌

ロックアウト

デンマークの教員は、雇用協定の破棄は、教育の質を低下させるとして、雇用者側の提案を拒否したために
4月のほぼ1か月ロックアウトされた。写真は、訴える教師たち。コペンハーゲンポストから
この背景には、学力問題を契機として授業時数を3割増やすのに、これまで確保されてきた授業準備などの
時間も、授業させるとした案についての対立がある。状況の経過を追いたいと思っている。


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# by chiharu_eguchi | 2013-05-16 10:30 | デンマーク